祇園祭メモ
祇園祭・・・正式には「祇園御霊会」
祇園御霊会がいつ始まったのかは定かでは、10世紀頃には形ができあがったと思われる。
平安時代初期には、政争に敗れて非業の死を遂げた人の怨霊が、疫病や天変地異などの災厄をもたらすと畏れられていた。中でも有名なのは、延喜3年(903)に死亡した菅原道真である。道真の怨霊が天災をもたらすと畏れられ、天暦元年(947)には京都に北野天神として祀られた。
同時にこの頃、疫病の蔓延を防ぐために、京都に行厄神の牛頭天王を祀る祇園社が勧進された。
御霊会や祇園会では御霊や厄神を鎮めるために大きな山車を用いたり、歌舞音曲が行われた。
この他、京都では、天慶元年(983)に男女一対の神像、岐神(ふなどのかみ)が大路小路の辻で祀られている(『本朝世紀』)l
6月初旬、鴨川での神輿洗いを終えた三基の神輿は、6月7日に本社を出発して、洛中の御旅所に遷幸する。 女神の婆利采女の一基は大炊御門烏丸の少将井社、主神の牛頭天王と蛇毒気神の二基は五条坊門烏丸の大政所に7日間迎えられ、6月14日に還幸する。この還幸の日が御霊会にあたり、朝廷から騎馬の童とその行列(馬長)がよせられて、都市民も多く参列し田楽や風流などの芸能を奉仕した。
御霊会というのは、もともと洛中で疫病が流行すると「御霊」の祟りとみなし、郊外の八坂・深草・紫野などの地でその怒りを鎮めるために行われた法会である。そこに鎮座された御霊の神を都市民が洛中の御旅所に迎えることで祭りに発展したのである。八坂の御霊会が祇園祭、深草・紫野のそれが稲荷祭・今宮祭で、もともと都市民の祭りとしての性格が強かったのである。
御霊会は、御霊神である。内裏近くを神輿が通過するときは、天皇は方違えをおこない、摂関家ではニラを食して精進したのである。都市民は神輿を迎えると、無病息災を祈って、少将井・大政所の御旅所や京極寺を巡って参詣する。今の宵山につながる行事である。
院政期、白川院は祇園会に積極的で、祭りを盛大・豪華にしていく。
6月14日は神輿は還幸となる。この祇園御霊会の日には、神幸行列に沿ってさまざまな芸能が演じられた。院の殿上人をはじめ、内(天皇)や女院の殿上人が馬長の童を調進し、院北面や文殿の官人は歩田楽を仕立て、受領は植女を調進するなど朝廷から御霊会にむけて種々の奉仕があり、その様子は「金銀錦繡風流の美麗記しつくすべからず」というものであった。
しかしそのかたわら、都市民の芸能の奉仕は次第に隅に追い寄られて影が薄くなり、祭りの騒乱や猥雑さは厳しく取り締まれていくようになる。
仁平4年(1154)におきた夜須礼の事件は、逼塞させられていた都市民の不満の爆発であるといえる。
3月、京中の児童に射的が流行したのに続いて、児女が紫野の今宮社にむかって、風流の花笠をさし、笛・太鼓・擦鉦を鳴らし、「はなやさきたる、やすらいはなや」と拍子にあわせて唱和、乱舞したという。
もとは疫病の流行によって、疫人を鎮めようと始まったのだが、京中の貴賤がこぞって市女笠をかぶって祭りに参加し、見物するにおよび、勅によって禁止されてしまった。都市民には強い不満が募るのも当然である。折から飢饉が始まり、都には多くの人が流入して、社会不安の様相に包まれる中、近衛天皇・鳥羽院が相次いで死去し、天皇の皇位継承問題や摂関家の内紛である、保元の乱が勃発したのである。
しかしいったん飢饉ともなれば、災禍を免れるように盛大に行われた。
乱後、新政権は一連の経過を踏まえ、いち早く諸社の祭りの興行をうたった。祇園祭も成長してきた都市民の手に戻されることになり、今宮社の夜須礼も鎮花祭として定着をみるのである。この時京都の都市共同体の祭りが本格的に成立したのである。
祇園祭は、こののち長く都市の祭りとして発展し、都市民に共同体意識をはぐくむ。
鎌倉時代を通じてみると、しだいに朝廷の熱意は衰え、かわって庶民による芸能奉仕が充実し、鎌倉時代末には今につながる鉾がくりだされるようになった。
室町期、応仁の乱によっていったんつぶれたものの、その後再び都市民(町衆)の手によって再現される。
祇園祭の歴史的変遷は、それを担う都市民の動きをよく物語っていて、中世都市を支える庶民が、保元の乱とともに歴史の表舞台に登場してきたと評価してもよいであろう。
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