葵祭 2018

葵祭が5月15日(火)、京都市内で行われた。

葵祭は下鴨神社・上賀茂神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに「京都三大祭り」と言われている。 総勢約510名、馬36頭、牛4頭、牛車2基からなる行列が10時30分、京都御所を出発。先頭から最後尾まで約1Km近くに及ぶ行列は、下鴨神社を経由して上賀茂神社までの約8Kmを巡行した。

15日は30℃を超す夏日となったが、緑まばゆい晴天であった。

今年は、来年の改元を控える「平成」最後の葵祭。

その時代の節目の祭を担う斎王代(第63代)は坂下志保さん(23・京都市左京区)。

小さいころから日本文化に親しみ、母美保さん(55)は本家八ッ橋西尾(左京区)専務で、1988年(昭和63)の斎王代を勤められ、まさに昭和最後の斎王代で、親子で斎王代を勤めたのは6組目となる。

志保さんは、同志社大卒、空調機器メーカーダイキン工業に勤務され、趣味は4歳から始めた京舞(井上流)、フラワーアレンジメント、しの笛。2009年(平成21)には斎王代列の采女(うねめ)も務められた。

大垂髪(おすべらかし)に「心葉」(金属製)の飾り物。額の両側に「日陰糸」といわれる組糸。手には桧扇。 十二単は重さ30㎏といい、着付けには2人がかりで3時間近くかかるという。

葵祭の名の通り、御所車、勅使、牛車にいたるまで葵の葉で飾られ、「有職故実」、京都伝統産業の職人技に磨かれた衣装も大きな見せ場なのである。

賀茂祭ともいうが、祭儀に関わる人たちや調度、御簾や牛車に至るまで二葉葵を挿し飾ることから「葵祭」と呼ばれる。

祭祀は古くのご祭神・賀茂別雷大神が上賀茂社の北北西にある神山に降臨された際、神託により葵を飾り馬を走らせ、神迎えの祭りを行ったことに始まるとされる。(『賀茂旧記』)

時を経て、欽明天皇の治世(6世紀頃)、風水害が続き、庶民が大いに嘆いたため、勅命によって卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ賀茂大神の祟りであることが判り、旧暦4月吉日を選び、往古の神託に習って葵を飾り馬を走らせ、盛大に祭りを行ったことが賀茂祭の起こりといわれる。(『賀茂縁起』)

【下鴨神社の走馬の儀】葵祭の起源ともいわれる。

走馬の儀の神人らに神禄の五色の幡が授与される。

平安時代になり、平城天皇の大同元年(806)4月には勅祭となり、弘仁10年(819)には賀茂祭を中祀(伊勢神宮と賀茂社のみで行われる国の最も重要な祭の形式)に準じ斎行せよと勅が下され、貞観年中には勅祭賀茂祭次第の儀式次第が定められて壮麗な祭儀となった。

しかし、当時の、賀茂祭の社頭での祭儀は一般の拝観がほとんど許されていなかった。そこで御所から社への行列を見ようと、法皇・上皇・公卿たちが牛車を推し並べて桟敷を設け、京の庶民を始め、地方から上京してきた人も加わって街は人で溢れかえったといわれる。

時代によって祭は、衰退と再興を繰り返し、明治17年(1884)、明治天皇の旧儀復興の仰せによって春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭として祭儀が斎行されることとなり、祭日も旧暦4月中の酉日から明治以降は新暦5月15日に改められた。

戦後、昭和28年(1953)行列が復活、昭和31年(1956)には斎王に代わる斎王代を中心とする女人列も復興され、今日の葵祭のようになった。

現在の 賀茂祭の構成

① 宮中の儀 京都御所において古くは天皇が出御され「勅使発遣の儀」が行われていたが、現在は奉行により勅使・内蔵使に御祭文並びに幣帛が授けられ、行列の列見が行われる儀式。

② 路頭の儀 御所を進発した総勢500余名、長さ800mに及ぶ行列が市中を巡行する儀式。

③ 社頭の儀 上賀茂・下鴨両社に行列が到着した後に行われる儀式。 これに先立ち各社共本殿祭を斎行し、勅使到着を待つ。 天皇の言葉が書かれた紅紙の祭文を奏上し、幣物を奉納する。

行列は大きく二つに分かれる。勅使代の本列と斎王代列である。 主役は、華やかな斎王代に見えるが、実は勅使。

本列の主な構成。

乗尻(のりじり):行列を騎馬にて先導する(5月5日の賀茂競馬の騎手がこれに当たり露払いする)。

検非違使志(けびいしのさかん):志は長官から数えて4番目の位(薄い藍色の装束・弓矢を持つ)。 検非違使尉(けびいしのじょう):長官から数えて3番目の位(黄に赤みのある装束・弓矢を持つ)。 山城使(やましろづかい):国司庁の次官(現在の京都府副知事に相当)。行列が御所を出ると洛外(国司庁の所管区域)になるため、警護の列に加わったとされる(緋色の装束に太刀を佩く)。

衛士(えじ):御幣物唐櫃(御祭神に供える御幣物を納める箱)を守護する役(緋色の装束に藁靴)。

内蔵寮史生(くらりょうのししょう):内蔵寮より上・下社に各一名担当を命じられた役人。上職の「内蔵使(くらづかい)」に御幣物を渡す役(藍色の装束)。

馬寮使(めりょうづかい):索馬の担当役人(薄い藍色の装束。矢を負う)。

牛車(ぎっしゃ)

御馬

和琴(わごん)

舞人(まいびと):東游(あずまあそび)を舞う武官で近衛府五位の歌舞に練達した人6名(橙色の装束・絵入の白袴)

陪従(べいじゅう):雅楽を奏する近衛府五位の武官(伶人)7名(紫に蛮絵模様のある装束)。

内蔵使(くらづかい):勅使が奏上される御祭文を棒持する役で内蔵寮の次官(現在の財務副大臣に相当)。(緋色の装束・御祭文の入った袋を肩から掛け、太刀を佩く)。

勅使

牽馬(ひきうま)

風流傘

【上の写真は勅使】

斎王代の主な行列

命婦(みょうぶ)

女嬬(にゅじゅ)

斎王代

騎女(むなのりおんな)

蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)

牛車

命婦

斎王代(賀茂斎王院の制度)

斎王は賀茂神社に奉仕する未婚の皇女、または女王が勤めた。

初代斎院は、嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王。弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願で奉じられた。薬子の変がきっかけとも言われる。

生母は帰化した百済王系の女王で、大変漢詩文にすぐれていた。

現在のものは、1956年(昭和31)に斎王代として創設されたものである。

斎院の始めは、古代より宮中では、神への崇敬の念を表す行為の一つとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例があり、始めは伊勢神宮に、次いで賀茂の大神に奉られたのみである。 賀茂斎院が創設されたことによって、伊勢を「斎宮」、賀茂を「斎院」として区別される。斎院は「さいいん」又は「いつきのみや」ともいわれ、嵯峨天皇以後、天皇即位のたびにト定(ぼくじょう)され、天皇が譲位、崩御された際に退下(たいげ)するのが習わしとされた。

※卜定=吉凶を占い定めること  ※退下=御前を下がること

斎王が卜定されると、参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされ、賀茂両社に事の由を奉告される。次に御所内の一所を卜して初斎院といわれる居所を設け、3年間日々禊斎して毎月朔日には賀茂の大神を遥拝する生活を送る。3年を経て4月上旬(旧暦)吉日に野宮(愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院」ともいわれた)の院に入り、賀茂川で御禊を行った後、初めて祭事の奉仕が許された。この院は、現在の京都市上京区の「櫟谷七野神社」あたりの一画(約150米四方)にあったと推定される。斎王の寝殿や賀茂両社の神を祀る神殿等事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、弘仁元年(810)から建暦2年(1212)のおよそ400年間で、35代に及び仕えられてきた。

往時には、賀茂祭当日斎王は、御所車で院を出御。勅使以下諸役の行列と一条大橋で合流して、東行してまず下社、次いで上社へ参行。上社では本殿右座に着座して祭事が執り行われた。その夜は上社御阿礼所前の神館(こうだて)に宿泊され、翌日野宮に戻られた。のちに、宮中では使いを召され、宴を賜い、禄を下されるが、斎院においても同様の「還立(かえりだち)の儀」が行われていた。

連綿と続いた斎院も、鎌倉時代初期の土御門天皇の御代に卜定された後鳥羽天皇の第十一皇女禮子(いやこ)内親王を最後に絶えて再び置かれることはなかった。

昭和31年(1956)、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が往時のように再現され、現在のようになった。 それによって、賀茂祭の当日に先立つ午、または未の日の野宮の院から賀茂川の河原に赴いて行われた「御禊」も復活され、この儀は毎年5月上旬、賀茂両社が毎年交互に斎王代以下、女人列御禊の儀として斎行されている。

上賀茂神社・社頭の儀

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